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山口県下関市

白身魚の王様と称される高級魚「ふぐ」。
日本におけるふぐ食の歴史は古く、縄文時代の貝塚からふぐの骨が多数出土しています。
その上品で甘味のある味わいは、古来より沢山の人々を魅了し求められてきました。
しかしその一方で、ふぐがもつ強い毒に運命が左右され、命を落とす人も後を絶ちませんでした。
ふぐに関する歴史上の出来事は波瀾万丈で、虜になるほどの美味しさと猛毒という二面性が、数多の人々を翻弄してきたのでしょう。
ふぐを欲する人間の貪欲が新たな文化を生み出すほど、力強い魅力をもった魚といっても過言ではありません。
そんなふぐ食の歴史を語る上で、外せない都市があります。
それは、日本全国で一番ふぐが集まる街として有名な山口県の下関市です。
ふぐ毒にまつわる歴史上の出来事と、ふぐ食についての流れを追ってみると下関がなぜふぐの街として根付いたのかが分かります。
下関がふぐに向き合い立ち上げたブランド力と、その歴史的背景をお伝えします。
古来より食べ続けてきたふぐ食の歴史を紐解き、ふぐの街下関について辿ってみましょう。

ふぐ食の歴史

ふぐ食の歴史

高級で美味、美食の代表格であるふぐ。
ふぐは高タンパク質なうえ、低脂肪低カロリー、更にコラーゲンを多く含む美容食でもあります。
そして多くのアミノ酸からなる白身は、他の魚にはない旨味があふれ、とても魅力的な食材です。

しかしそのような情報など関係なく、沿岸に生息するふぐは縄文人にも捕獲しやすい、とても手頃な食糧でした。
長い歴史の中で多くの先人達がふぐの美味しさに魅了され、時にふぐ毒によって尊い命が奪われながら、現在までふぐ食の文化が受け継がれてきたのです。

また日本だけでなく、中国にもふぐ食にまつわる歴史が残っています。
ふぐ食の歴史について追ってみましょう。

食は中国にあり!ふぐは古代中国でも食べられていた

ふぐ食の歴史を紐解いてみると、歴史は古代中国まで遡ります。
ふぐを漢字で「河豚」と書く、このルーツは中国にあります。
中国で食べられていたふぐは、メフグという河川で獲れる種類のふぐでした。
メフグは海水魚ですが産卵のために河を遡上してくることから、中国でふぐは河の生き物と考えられていました。

今から約2200年前秦の始皇帝の頃、「山海経(せんがいきょう)」という書物にふぐの関する記録が残っています。
この書物によると「これを食えば人を殺す」と書かれており、この頃すでにふぐは毒を保有しているという認識があったと伺えます。

また、後漢の時代(紀元後25年~紀元後220年)の「論衡(ろんこう)」という思想書には、ふぐに関して「肝に毒あり」とハッキリ記載されています。
有毒な魚であるにも関わらず、中国でもふぐは食べられていたようで、隋代(581年~618年)の「諸病源候論」では「卵巣と肝に毒あり」と部位が特定されており、ふぐを食す際は強い毒がある部位を避ける様に注意を促しています。

その後、宋(960年~1279年)の時代に入るとふぐ食が一般的になったのでしょう、人々の間に「河豚」の文字が定着していきました。
当時、食通として知られていた政治家であり詩人の蘇東坡(1036年~1101年)は酒とふぐをこよなく愛し「一死に値する」、つまり「死ぬほど美味」とふぐの味を絶賛したと言われています。

また明代(1368年~1644年)に入り、「本草綱目」という書物の中で、ふぐの精巣(白子)の事を「西施乳」(せいしにゅう)と呼んでいます。
「西施」とは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)の末期、中国四大美女の一人と謳われた人物です。

呉に敗れた越は策を練り、絶世の美女西施を呉王のもとへ送りました。
そのあまりの美しさに呉王は色香に溺れ、その隙に越が攻め入り呉の国が滅んだという物語があります。
食べるとその美味しさのとりこになる究極の味覚「精巣(白子)」を、この「傾国の美女」西施の魅力に例え、「西施乳」と呼んだのです。

美味しいふぐですが、中国ではふぐ毒の管理体制が不十分だったため、事故が多発していました。
そのため中国では、1990年から2016年までの26年間、ふぐの国内流通、ふぐ食が禁止されていました。
2016年、ようやく安全に流通できる体制が整い、養殖トラフグと養殖メフグの2種のみという条件付きで、国内でふぐの販売が解禁されたのです。

中国では「死を払って河豚を吃(くら)う」ということわざがあるくらい、日本同様にその毒を恐れながらも、ふぐの美味しさを追い求めてきた長い歴史があります。
中国でのふぐ食解禁に伴い、世界へ向けて日本のふぐ業界も賑わうことが期待されています。

日本人とふぐ食の歴史

日本では約20,000年前の遺跡から、ふぐ科の魚の骨が出土しています。
日本人は古代、縄文時代から釣りや網等で魚を獲っており、沿岸地域に多く生息しているふぐは馴染みの食材だったと言えるでしょう。

当然、毒の知識もなく中毒になって命を落とす人もいた中で、それでも遺跡の貝塚などからふぐ科の魚の骨が多数出土していることを考えると、ふぐは身近で貴重なタンパク源として重宝されていたことが伺えます。
ふぐの毒に当たるのは怖いが美味しい魚肉は食べたいと、運に任せながらふぐ食をやめなかったのかもしれません。

ふぐにまつわる歴史上の出来事

日本で最初のふぐの記録は、「布久」という名で登場します。
日本最古の平安時代(794年~1185年)の「本草和名」(918年)で、薬用となる動植物のひとつとして紹介されています。

さらに安土桃山時代(1575年~1603年)に入り、豊臣秀吉が朝鮮出兵した「文禄・慶長の役」(1592年~1598年)で、ふぐに関する一大事故が起こります。

豊臣秀吉は、朝鮮への窓口となった肥前那古屋(現在の佐賀県唐津市)に前線基地を設置し、全国から将兵を集めました。
海を渡って朝鮮と戦うために駐屯していた大勢の将兵たちは、出陣前の集結地でふぐを食べ、次々と中毒死してしまう大事故が起きたのです。

16世紀最大の戦争と言われるこの戦いで、君主の役に立たずしてふぐで命を落とすとは言語道断の行いです。
このことがきっかけとなり、豊臣秀吉は「河豚食用禁止の令」を出し正式にふぐ食を禁止にしてしまいました。

その後、時の権力者が移り変わった徳川治世下でも、武家の間でふぐ食禁止は続けられました。
各藩は「河豚食用禁止の控」を設けて、厳しく取り締まりを行っていたといいます。
罰則は容赦なく、中でもふぐ生産地のひとつ長州藩は最も厳重で、違反者には家禄の没収や家名断絶という大変厳しい措置を定めていました。
武士の死生観として、主君の為に奉公する命を食い意地のために落とす事は美しくなく、恥ずかしいことだったのかもしれません。

一方、庶民の間ではふぐの食文化は秘かに花開いていきました。
しかし明治18年(1885年)、政府は正式に法律でふぐ食禁止を定め、「河豚食ふ者は拘置科料に処する」という項目を盛り込んだ「違警罪即決例」を発布します。これで一般人もふぐを食べる事はできなくなったのです。

鶴の一声でふぐ解禁

ふぐは美味しいけれど毒が怖い、しかも法律により禁止されている。
厳しい処罰を知りながら、それでもふぐは重要な食料としてこっそり食べ続けられていました。
長年のふぐ食文化の間に、ふぐ毒の処理の仕方も確立され、安全な可食部位が定まっていたのです。

明治20年(1887年)、明治政府の初代総理大臣である伊藤博文が下関に滞在した際に、宿泊した春帆楼にてふぐ料理を出したことで歴史が変わります。
伊藤が宿泊した際、海が荒れて漁に出られず、提供できる魚がなかったそうです。
処罰されることを覚悟でふぐの刺身を出したところ、その美味しさに感動した伊藤博文は、当時の山口県令(知事)原保太郎に働きかけ、違警罪即決例から「河豚食ふ者は拘置科料に処する」という項目を消させたといいます。

翌明治21年(1888年)に、山口県においてのみふぐ食は解禁され、新たなふぐ食の歩みが始まるのです。
明治25年になり、東京都でもふぐの販売が許可されます。しかし、ふぐを適切にさばけるふぐ処理士がいなかったため、下関は職人を育て、東京へ派遣していました。

第一次世界大戦が終結した大正7年、兵庫県でふぐが解禁となりました。
長い食糧難の時代を超え、昭和16年になってようやく、大阪の街でもふぐ食が解禁されました。
昭和23年大阪府は、ふぐ食の安全確保のため、ふぐ処理を手掛ける職人に免許制度を設け、毒による事故の発生を防ぐ条例を出します。

全国に先駆けた「ふぐ販売営業取締条例」は、消費者がこれまで感じていたふぐ食へのリスクを減らしました。
翌24年に東京都でも同様な条例が制定され、じわじわと全国にふぐの資格制度が広がっていくことになります。

ふぐといえば下関

ふぐといえば下関

ふぐは広く日本に分布している魚です。
中国地方の日本海側、九州北部などが漁場として有名です。
ですがふぐといえば、多くの方が下関を連想されるのではないでしょうか。

下関は九州と向かい合わせの本州最西端にあります。
日本海、南シナ海、瀬戸内海などに面し、古くから海上航路の要衝となってきました。
また九州と本州をつなぐ重要な交易路でもあり、下関は漁港としてはもとより、街としても古くから栄えてきました。
そして流通面でも条件のよい下関は、ふぐ毒の除去等下処理をするノウハウを確立していったのです。

さすが首相のお膝元

明治政府首相である伊藤博文の鶴の一声で、約300年続いたふぐ食の禁止令が解かれました。
伊藤は元々長州藩(現在の山口県)の出身でもあり、小さい頃からふぐに慣れ親しんでいたと思います。
伊藤はふぐの美味しさや、きちんと処理されていれば問題のないこと、そして下関には伝統的にふぐを扱う業者が多いことなどから、唯一「解禁の地」として下関に限りふぐ食を許したのです。
伊藤にふぐを提供した春帆楼は、ふぐ食において「公許第一号」の店に認定されました。

また、この計らいは伊藤の地元を思う気持ちもあったのではないかと推察されます。
社交界の中心地として、また下関でしか食べることのできないふぐは特別な高級食材としての地位を高めていったのです。

下関とふぐの現在の関係

現在でも下関は、ふぐの名産地として全国に名前が通っています。
しかし、天然と養殖ふぐどちらの水揚げ高も一位は他県がランクインしています。
現在ふぐは天然物が減少し、養殖物の流通量が多くなってきています。

フグ類の漁獲量

2015年の統計によると、フグ類の都道府県別水揚げ量は下記の通りになります。
日本におけるフグ類の水揚げ量は全体で4,885トンです。

・1位…石川県(約691トン、全体の約14%)
・2位…島根県(約482トン)
・3位…北海道(約459トン)
・4位…山口県(約317トン)

養殖ふぐの水揚げ量

2015年度統計では、養殖ふぐは約4,012トンの水揚げがあります。

・1位…長崎県(約2,067トン、全体の約51.5%)
・2位…熊本県(約476トン)
・3位…大分県(約230トン)
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・7位…山口県(約153トン)

下関ブランドの確立

天然物と養殖物のどちらを取ってもふぐの水揚げ量の上位3位に、下関がある山口県は入っていませんでした。
しかし、高級食材の天然トラフグ流通の80%以上を取り扱うと言われている南風泊(はえどまり)市場は下関にあります。
南風泊市場は、下関をふぐの町として地位確立に貢献した唐戸魚市場より分離した、ふぐ専門の市場です。
黒布の筒の中で指を握って値決めをする「袋競り」を行なう市場として名高く、ふぐ流通機能の中心地の一つとしての役割を担っています。

ふぐという魚は、強い毒をもっているので有毒部位を除去する「身欠き」という作業を経なければ流通することができません。
南風泊市場には、天然ふぐをセリ落とした中卸業者による共同加工場があり、身欠きしたふぐを全国に出荷しています。
加えて南風泊市場のある下関は、全国の天然トラフグの価格を先導しています。

ではなぜこのように、ふぐは下関へ集まるのでしょうか。
下関は、1888年に日本で唯一ふぐの食用が解禁されていたため、多くのふぐが集まりました。
古くからふぐの産地としても確立されてきたため、ふぐの料理屋も多く、ふぐ毒の処理を行う業者も充実していました。
そのためふぐの処理場も多く存在し、下関はふぐの集積場としての役割を強めていたのです。

さらに下関はふぐを扱うお店が多い関西方面への物流面に優れ、山陽道と山陰道の交点であり、本州と九州を繋ぐ玄関口として古くから交通の要衝として栄えてきました。
また海路も、瀬戸内海や日本海と接していて海運の盛んな地域ということもあり、下関はふぐの流通拠点として全国のふぐが集められたのです。

ふぐの人的流通・情報流通の中心地となった下関は、ふぐの身欠きを行うふぐ処理士を育て、ふぐと共に地方へ派遣してきたといいます。

このように長い年月をかけ、下関はふぐの流通を担う街として「ふぐと言えば下関」というブランドイメージを定着させていったのです。

南風泊市場がふぐの流通拠点となった3つの理由

ふぐ食の歴史と下関を語る

ふぐ食の歴史と下関を語る

ふぐの化石は約20,000年前のものが出土されており、千葉県にある姥山貝塚からは、ふぐ毒にあたって亡くなったとみられる約5,000年前の縄文人家族の人骨が発見されました。

遙か昔から身近な食材であったふぐは、時折その体に隠し持った毒で人命を脅かせ、長い歴史の中で様々な議論を生んできました。
美味しいものを食べたいという人間の欲は、抑制されるとストレスを感じ、さらに欲してしまうものなのかもしれません。
河豚食用禁止の令が発令されてもなお、ふぐの魅惑的な美味しさは、お家断絶を懸けてでも食べたいほど数多な人を虜にしてきたのです。

山口県下関市において唯一ふぐ食が解禁された際には、下関でしかふぐは食べられないという希少価値も付随し、ふぐを求めてたくさんの人が下関を訪れました。
下関の優れていた点は、ふぐという商品の美味しさに甘んじることなく、ふぐ毒に対する人々の不安要素を取り除く努力をしたことです。

ふぐの街下関として全国から注目されたふぐ職人は、他の魚にはない毒除去の下処理や固い身の引き方などいっそう技を磨きました。
下関で長年築き上げてきたふぐをさばくノウハウは、確固たるふぐ処理士の資格として取り上げられ、商品衛生法に活かされました。

また下関はふぐ水揚げ高上位の海域に囲まれ、本州と九州を繋ぐ拠点として流通面でも利便性が高く、好条件の地域です。
流通を拡大するにあたり、仲介業者間では人と人の繋がりを大切にし、信頼関係を築いていきました。
職人・漁場・流通という三本柱が揃っている下関は、美味しいふぐを堪能できる日本一ふぐが集まる「ふぐの街」としてブランド化されていったのです。

ふぐ食解禁の地「下関」という場所がなければ、もしかしたら現在日本でふぐ食は禁止されたままだったかもしれません。
この様なふぐに関する物語を知ると、今まで以上にふぐの魅力に興味がわき、ふぐ料理を違った目線で楽しめるのではないでしょうか。

時代の移り変わりの中で、人の健康を基に安全性に考慮したふぐに関する法律が定められている日本のふぐ食は、世界一安全と言えます。
ふぐを食べたいという強い欲は新しい文明をもたらす大きなエネルギーとなり、命を懸けてまでふぐという魚に向き合ってきた人々の努力が、今日の日本のふぐ食文化を支えたのです。
大切なことは安心して食べられる環境を崩さないことで、日本のみならず世界中に誇れるふぐ食を守っていくことなのです。

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