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南風泊市場がふぐの流通拠点となった3つの理由

関門海峡

山口県の近海は良質なふぐが漁獲できる海域として有名で、本州と九州を繋ぐ交通の要として昔から下関の市場にはふぐが集まっていました。

山口県は下関を中心に、古くからふぐ食が根付いてきた地域です。

良質なふぐが集う下関には、自然と料理人が集まります。

ふぐ毒に関する基礎知識がなかった時代、料理人は経験と伝え聞いた知識を基に、ふぐをさばいていました。

そのような時代に、下関にはふぐ処理に長けた熟練の料理人が多く育っていきました。

下関で長年培われた経験で調理されるふぐは信頼度が高く、「ふぐと言えば下関」と謳われるほどの実績がありました。

下関の美味しいものと言えば「ふぐ」と即答する人も多いのではないでしょうか。

ふぐの街として確固たる地位を確立した下関には、全国で唯一のふぐ専門の市場「南風泊市場」があります。

全国から水揚げされたふぐが集められ、目利きに優れた仲卸人がセリを行い、鮮魚のまま、もしくは一次加工の除毒作業を行い出荷されていきます。

ふぐの発信地下関にある、ふぐの流通を一手に引き受けている市場「南風泊市場」について、歴史と機能を見ていきましょう。

ふぐの街として栄えている下関の伝統とその理由を知ると、「下関ふぐ」というブランド化につながった実力がわかります。

活魚の集まる下関の市場

唐戸魚市場

ふぐの街として名高い山口県下関にある唐戸魚市場は、本州最西にある庶民の台所として有名な市場です。
陸路と海路における起点、終点、経由地という地の恵みのおかげで、本州と九州の玄関口として昔から多くの人々が行き交うこの土地は、いつしか全国から様々な商品が集い、市場としての機能を拡大していきました。

また、外国船の立ち寄る関所もあったため、刺激のある風土だったことが想像できます。
明治後半に建築された英国領事館は、現存する日本最古の異人館として、当時の様子を残しています。

そんな唐戸に集まった物品市場の賑わいは、徐々に広がりを見せます。
市場誕生の経緯と、唐戸魚市場から分離した南風泊市場についてご説明します。

唐戸魚市場の発足

現在下関には日本銀行の支店があり、大手地方銀行の本店も建ち並んでいます。
商船の行き交う港町の下関は、明治時代(1868年~1912年)の頃には西日本最大規模の金融街として潤った街でした。
人の集まる場所には自然と商売の品々が集い、唐戸にある亀山八幡宮では、野菜や果物といった生鮮食品の市場が開かれていました

唐戸の隣町である阿弥陀寺町には、鮮魚や干魚といった四十物(あいもの)を扱う物品問屋組合があり、知事の許可を得た市営の魚市場へと成長します。
大正13年(1924年)になると、阿弥陀寺町にあった市営魚市場は唐戸市場と合併し「唐戸魚市場」が誕生します。
当時の市は、国道9号の北側に位置する亀山八幡宮下にあり賑わっていました。

昭和8年(1933年)には規模を広げ、青果部、バナナ部、鮮魚部、雑部の4部門を抱える「下関市唐戸魚菜市場」が開場されます。
通常、市場は業者向けの卸としての機能を担っていましたが、下関市唐戸魚菜市場は一般人向けにも小売りをしており、当時はまだ目新しい存在でした。
地域に密着する路上販売からスタートした唐戸市場ならではの形状だったのかもしれません。

昭和46年(1971年)になると、卸売市場法の制定により、名称に制限が設けられます。
「中央卸売市場」または「地方卸売市場」という文字を用いなければならず、昭和48年(1973年)に「下関市地方卸売市場」と名称を変更します。
様々な立地環境から、昭和51年に青果卸売部門は、日本三大住吉の一つに挙げられる住吉神社の建つ勝山地区へと移転します。

唐戸の市場は「下関市地方卸売市場唐戸市場」と改名し、平成13年(2001年)にはカモンワーフという総合ショッピングセンターと合わせて新設され、今日も下関市有数の観光スポットとして地元民や観光客で賑わっています。

分離したふぐ専門市場「南風泊市場」

内海のみだったふぐの漁場が広がり、水揚げされるふぐの量が増えると、唐戸市場ではさばききれなくなります。
そこで、ふぐのみを扱う市場として全国で唯一のふぐ専門の市場「南風泊市場」を設置しました。

下関の最西端に位置する南風泊市場は、「はえどまりしじょう」と読みます。
下関では、南から暖かく湿った空気が流れ込むと雨が降り、寒い時期には雪となって天気が荒れるので、南から吹く風は荒天の前兆と警戒されていました。
また、江戸時代(1603年~1868年)初期から明治時代(1868年~1912年)にかけて活躍した、商品の売買を行う廻船「北前船」が関門海峡を通る際、強い南風が吹くと停泊して休んでいたことから「南風泊」という地名が付いたそうです。

地元の人以外は、なかなかパッと読むことができない読み方をもつこの市場は、元は唐戸市場にあった魚の卸機能のうち、ふぐの取引に関する全般を分離した場所です。
ふぐのセリから有毒部位を除去する「みがき」と呼ばれる解体作業などを一手にこなせる、全世界で唯一のふぐのみに特化した専門の市場なのです。

下関市が「ふぐの流通を担う街」となったのは?

天然トラフグ取扱量日本一!南風泊市場

南風泊市場の袋セリ

全国のふぐが集う南風泊市場は、まさにふぐの玄関口としてここを拠点に全国へとふぐが流通しています。
ふぐは天然トラフグを筆頭に、高級で美味しい白身魚として人気を博し、全国に多くのふぐ料理店が軒を連ねています。

強力な毒をもつふぐは、さばくのに専門の資格を必要とするだけでなく、除去した有毒部位を処理する体制が整った場所でないとさばくことができません。
南風泊市場には、ふぐをさばく大きな共同加工場があり、全国で最もふぐをさばく有資格者が集まっています。
このように他の魚にはない特殊な状況が、ふぐに特化した専門の市場を誕生させたのでしょう。

南風泊市場には、下関ふぐというブランドを誇りに、ふぐの目利きに長けた仲卸人が集っています。
仲卸とはどのようなものなのか触れつつ、ふぐの流通を一手に引き受けている南風泊市場とは、どのような市場なのか見ていきましょう。
全国でもここでしか行われていない、伝統の「袋セリ」についても紹介します。

目利きに優れたプロの集まり「下関唐戸魚市場仲卸協同組合」

平成13年(2001年)に「下関唐戸魚市場仲卸協同組合」は設立されました。
海の恵み豊かな下関には、市場が三つ存在します。
ふぐ専門の卸市場である「南風泊市場」、養殖魚の相対売りと観光客を対象とした市場を併せ持つ「唐戸市場」、そして一般鮮魚を扱う「下関漁港市場」です。
これらの市場に集荷された魚は、選別されて「セリ」にかけられます。

「セリ」とは市場に集まった商品の値段を決める取引のことです。
このセリに参加できるのは、多様な項目をクリアし山口県や市から認可を受けた「下関唐戸魚市場仲卸協同組合」の24社のみとなっています。
仲卸人がセリ落とした魚介類が、全国の卸売市場へ出荷されていくため「プロ中のプロ」としての誇りをもち、優れた目利きで日々活動しているのです。

そしてふぐという毒をもつ特殊な魚を扱うにあたり、この組合に登録されている現24社でないと、南風泊市場でふぐを仕入れることが出来ない決まりとなっています。
「ふぐと言えば下関」とイメージされる自信と誇りを胸に、ふぐの発信地としての信頼を守り、下関ブランドを揺るがないものに確立するために、認可された仲卸人しか参加できないのです。
24社の内、2社はふぐを取り扱わない仲卸なため、ふぐのみを取り扱う仲卸と、ふぐと鮮魚の両方を取り扱う仲卸の22社が南風泊市場でセリに参加しています。

平成16年(2004年)には、より下関のふぐの価値を見出そうと「下関ふく」(山口県ではふぐをふく(福)と読んで縁起を担いでいます)マークが特許庁に商標登録されました。
このマークは南風泊市場で水揚げされ、組合員が取り扱うふぐにのみ付けられる「本物の下関ふく」の証となっています。

参考文献:下関唐戸魚市場仲卸協同組合

ふぐのスペシャリストが集う市場

下関には三箇所の市場が存在し、中でも世界で唯一のふぐ専門の市場「南風泊市場」は有名です。
本州と九州を結ぶ関門海峡は多くの船が行き交い、ふぐの一大集積地として全国で水揚げされた約8割の天然ふぐが南風泊市場に集められ、天然トラフグの取扱量は日本一を誇ります。
またふぐの養殖場が多く存在する九州からも大多数の養殖トラフグが、この南風泊市場を通って全国へ出荷されていきます。

明治21年(1888年)、時の首相伊藤博文の鶴の一声により、日本で初めてふぐ食が解禁された下関は、今も昔も多くのふぐ料理人が集まっています。
現在ふぐは毒のある魚として、さばくのに専門の資格を必要としますが、それ以前から下関には熟練のフグ料理人が集まり「下関で調理されたふぐは安全」と、信頼されていました。
その長年に亘り培ってきたふぐ調理のスキルは全国から注目され、惜しみなく伝承されました。
資格制度が確立された今も途絶えることなく引き継がれ、全国で最も多くのふぐ調理人が南風泊市場に集まっています。

そしてふぐの集積地として名高い南風泊市場は、全国の天然トラフグの相場を先導しているふぐの中心地なのです。
南風泊市場は仲卸業者による共同の加工場を併設しており、有資格者による除毒作業を行い、日々新鮮なふぐを全国へ出荷しています。

板前も困惑する一貫性のないふぐ免許制度

日本で唯一のセリ方法「袋セリ」

日本でも南風泊市場でしか見ることができないセリが、昔より引き継がれてきた伝統の「袋セリ」です。
日々、日本近海で漁獲されたふぐがピチピチと音をたてながら次々とパレットに移され、袋セリの準備が進みます。
全国から集められた新鮮なふぐがずらりと並べられ、全22社の仲卸人がセリを行うために集結します。

そしてまだ夜も明けない午前3時台に、ジリジリジリとけたたましいベルの音が市場に鳴り響き、いよいよ袋セリの開始です。
日が昇る前の暗く湿った空気の中、片腕に黒い袋をはめたセリ人(売り手)が現れ、直ぐにセリがスタート。
「ええが!ええが!」という掛け声が特徴と言われている袋セリですが、実際セリの様子を見てみると低く早い口調で掛け声をかけており、素人には何を言っているのか分かりません。
セリ人へ次から次へと買い手が手を差し伸べ、黒い袋に手を差し込み、握った指の形で価格を提示します。

セリとは「競り」と書くように質のよい魚を入手するために、売り手と沢山の買い手が駆け引きをする真剣勝負のやり取りです。
現在魚介類の多くは、声を張り上げて交渉をする「声セリ」や、欲しい鮮魚が入ったカゴに希望の値段を記入した札を入れていく「札セリ」が一般的です。

例えば、かには威勢よく大声で駆け引きをする「声セリ」が多く、安定した人気を誇るまぐろは買い手が黙々とまぐろの質を吟味し、入札額を決めていく「札セリ」が用いられています。
上記のセリは効率がよく、大勢のセリが素早く次から次へと進むので、これらのセリが主力となっているようです。

南風泊市場でのみ残っている袋セリは、その名の通り黒い筒状の袋に売り手と買い手が両端から互いに手を入れて、指の握り合いで価格を示しセリを行います。
そのため、両者にしかいくらの値段をつけたかわからず、価格はシークレットなままセリが進み、いくらでセリ落としたか他者にわからない様になっているのです。

袋セリのはじまりは、昔市場で関係者が着ていた袖の長いカッパを用いて、交渉の指が見えない様に、袖に手を入れ合ってセリを行ったのが原型と言われています。
なぜセリ値を隠すのかというと、ふぐは代替の利かない魚として、大変珍重されているからです。
セリ値がオープンだと、不漁の際に数少ないふぐを競い合い、いくら叩いてもセリ落としたいと交渉が荒れ、収拾がつかなくなるため、売り手と買い手の両者にしか価格がわからないようにしたそうです。

ふぐがいかに特別な魚として扱われてきたかよくわかる伝統の袋セリは、下関が守り抜いてきたふぐ文化の象徴と言えるのではないでしょうか。

袋セリで守られるふぐの価格とセリの仕組み

ふぐ流通の玄関口「南風泊市場」

とらふぐ

下関にまつわるふぐ流通の歴史を追ってみると、今も昔も下関は全国のふぐを集積し発信するふぐの流通拠点とも呼べる場所だということがわかります。
ふぐの玄関口である南風泊市場は、下関が長年積み重ねてきたふぐに関するノウハウを全て詰め込んだ特別な市場なのです。

日本全国で水揚げされたふぐの過半数は、一旦南風泊市場に集められます。
遠方で漁獲されたものをわざわざ集積させるのは、効率が悪いように感じる人もいらっしゃるでしょう。
しかし南風泊市場には、他県に真似できない特徴が複数ありました。

一つ目は、立地的なメリットです。
トラフグの産卵地である玄界灘沖や瀬戸内海西部沿岸に近く、東シナ海、日本海、瀬戸内海と、ふぐの漁場として有名な海域に囲まれ、本州と九州をつなぐ立地は、下関が発展した最もたる特徴と言えます。
二つ目は、熟練した目利きの仲卸人と除毒作業に長けたふぐ専門の資格をもつプロフェッショナルが、全国で一番集まっていることです。
三つ目は、ふぐを流通させる上で大切な、除毒作業を行える施設が確立されていることです。

日本全国から南風泊市場へふぐが集まる流通体制は、仲卸人の目利きに磨きをかけさせ、「下関ふく」とブランド化できるほど確固たる地位を確立させたのです。
言うなれば下関は、全国のふぐ食文化を先導しているリーダー的存在の場所なのでしょう。
そして今日も、南風泊市場では威勢のよい掛け声と共に多くのふぐがセリ合われ、全国へ出荷されていくのです。

2018-10-01作成/2018-10-9更新]

下関ふぐ本舗

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