街道とは、場所と場所を繋ぐ道路のことで、有名なものに日本の五街道と呼ばれる「東海道」「日光街道」「奥州街道」「中山道」「甲州街道」なるものがあります。
名付けの由来は様々で、わかりやすく地名をつけたものが多く、同じ街道でも上りと下りで呼び名が異なるものもあります。
有名な道のひとつ、本州の中心にある重要なライフラインの輸送路を取り上げてみましょう。
それは、冬に最も美味しくなる旬を迎え、出世魚として縁起のよい魚「ブリ」に由縁のある「ブリ街道」です。
ブリ街道とは、旧飛騨街道の通称です。生活の必需品となる荷物を牛や馬の力を借り、雪の季節は運搬人が荷物を背負い、運んでいました。
ブリの名漁場である富山湾や日本海側の新潟県糸魚川付近では、漁獲したブリを岐阜県飛騨高山や長野県松本市など信州の山間部へ出荷していた歴史があります。
古来、日本近海で漁獲されるブリは日本人の主要な魚であり、神社での神事や年越しの食卓に並ぶ年取魚としても、新年を迎える際になくてはならない大事な魚として扱われてきました。
信州の人々にとってブリという魚は、新年を生きていく上で重要な食糧であり希望であったため、荷運びは雪に閉ざされる信州の壮大な山々や渓谷を人の足で一歩ずつ、何万匹単位ものブリを流通させてきたのです。
道路整備がされ車社会となった現代では想像が及ばない「ブリ街道」の過酷な道のりと、その経済的な役割を考えます。
工夫を凝らした、古のブリの旅路を昔の人々に思いを馳せながら辿っていきましょう。
ブリ街道とは
飛騨街道とは越中(富山)から見た呼び名であり、飛騨高山(岐阜)から見れば越中街道と呼ばれています。
この街道にはブリ輸送の痕跡が残っており、江戸時代初期である寛文5年(1665年)に、越中(富山)の肴屋衆から飛騨高山(岐阜)の日枝(ひえ)神社へブリが奉納されていたことを示す絵馬が現存しています。
富山湾から南下して走っている神通川に沿って、ブリは飛騨高山を目指して輸送されました。
湾口の東岩瀬から現在の富山港線の富山駅辺りまでは川舟で物資を運び、そこからは現在の富山市大田口通り付近らまでは馬が運び、笹津からは牛が物資を運んでいました。
富山湾岸である氷見、四方(現富山市)、滑川、東岩瀬(現富山市)などで獲れたブリは、昭和9年に鉄道が開通するまで、飛騨や信州の山間への道を歩くしか物資の輸送手段がありませんでした。
富山湾で獲れたブリは、東岩瀬の川沿いに「飛騨街道」を進み、岐阜県との県境である猪谷から2本の川沿いに「越中東街道」と「越中西街道」に分かれ高山へ運ばれます。
越中飛騨街道は約90km、牛や馬を使っても3日かかる道のりで、この輸送路を「ブリ街道」と呼んでいます。
さらに、高山からは「野麦街道」と呼ばれる標高1672mの野麦峠を越えるルートを用いて、信州松本までブリを運んでいました。
越中国から飛騨国高山までの難所
飛騨街道の起点である笹津(富山)からは神通川を挟んで東西へと二股に道が分岐しています。川を渡らず西側を進むと、国境に富山藩が設けた猪谷関所と呼ばれる関門があり、通行手形を得なくては通ることができませんでした。
関所をぬけると、また東と西に分岐します。加賀藩領である東猪谷関所を進むと越中西街道に通じ、富山藩領の西猪谷関所を進むと越中東街道に通じて、どちらも飛騨高山へ繋がります。
越中西街道
寛永16年(1639年)に、広大な領地の加賀藩から富山10万石が分藩したため、西猪谷関所ができたと言われています。
この西猪谷関所を通り過ぎたところに、「籠の渡し」で有名な蟹寺村の細入谷があります。
籠の渡しとは、川の上に網を張り、人が1人乗れる大きさの籠を吊して綱を操りながら行ったり来たりする、今で言うところの「ロープウェイ」に似ている交通手段です。
切り立った険しい谷間のある川へ当時は橋を架ける技術が乏しく、橋の代わりに人々が考え出した渡河方法でした。
細入谷は断崖絶壁の景勝の地であり、当時の藩士やその妻や子供がわざわざ見学に訪れるほど有名で、観光地のような場所でもありました。
越中東街道
東猪谷関所を抜け、現在の神岡町を通って飛騨高山へ通ずる道が越中東街道です。
神岡町は銀が掘り出されたことで有名な鉱山の町であり、地域の人々の貴重な稼ぎの場でもありました。
盛況な神岡町へ集まる、鉱山での働き手たちが使う物資も、ブリと合わせて越中東街道を通って運ばれていました。
神田町から高山までは険しい今村峠を越えるのが最短ルートだったようです。
飛騨高山から信州松本まで
飛騨高山から信州松本までは標高の高い北アルプスが連なっており、峠の連続となっています。
針ノ木峠(標高2,541m)、中尾峠(標高2100m)、安房峠(標高1812m)と、険しく積雪量が多い山脈の中で、輸送路には一番安全な野麦峠(標高1,672m)が利用されていました。
しかしながら野麦峠越えは、冬は雪が深く道幅も狭いけもの道で、野麦街道の最も険しい難所であり、ベテランの歩荷でさえ足を滑らせてしまうほどの命定めの峠でした。
野麦峠を越えて寄合渡(よりあいど)を左へ折れて進むと、野麦街道の宿場町として栄えた安曇村の稲核(いねこき)に着きます。
松本までの別ルート
北陸地方から山間の松本へ、物資輸送路として主に使用されていた街道には、富山湾からのルートとは別に、もうひとつの街道があります。
新潟県糸魚川から南下する「千国(ちくに)街道」です。
糸魚川から続く全長約120km道幅3m足らずのこの細道は、江戸時代の松本藩によって整備され輸送体系も整っていたといいます。
なぜなら、ブリの輸送にはふたつの街道が使われていましたが、塩は千国街道からのみ流入しており、この千国街道は命を繋ぐ重要なルートだったからです。
人間が生きていく上で、塩は欠かすことのできないものです。
松本藩では北塩専売制を設けており、塩の流通ルートを日本海側からのみ移入すると制限していました。
塩は藩の財政を左右する大事なものだったのです。
糸魚川から流れるブリの量は、そこまで多くなかったようです。
しかし「塩の道」とも呼ばれたこの街道は、糸魚川で陸揚げされた塩や越後方面からの海産物を流通させる、日本海と信州を繋ぐとても重要な街道として利用されていました。
人々の暮らしを支えていたブリ
ブリは暖かな海流を好み、成長と共に日本列島を南から北へと移動し、また産卵に向けて南下する回遊魚です。
1500年ごろから富山や新潟で漁獲され始めたブリは、地元民の暮らしの糧でした。
ブリを漁獲する人、それを塩ブリへ加工する人、ブリを運ぶ人など、ブリという魚ひとつに関わる人は多岐に亘り、ブリにまつわる商売は人々の貴重な収入源だったことが伺えます。
加工された塩ブリは日持ちがするうえ調理法も幅広く、地元のみならず山間部に住む人達からも多くの需要がありました。
また、信州から西日本にかけての地方では、「年取り魚」として大晦日にブリを食べる食文化があります。
新年に歳神様を迎えるのにブリがないと年が越せない!と言われるほど、人々にとってブリは年末に欠かせない存在でした。
ブリの価値
ブリの名漁場として知られている富山湾は、昔も今も極上の寒ブリが獲れることで有名です。
北の海で栄養を蓄え丸々と身太りしたブリは、故郷の東シナ海での産卵を目指し南下する途中、能登半島の出っ張りに引っ掛かりそこで漁獲されます。
「天然のいけす」と呼ばれる能登半島はブリの回遊ルートにあたり、絶好の時期にブリが獲れる好漁場なのです。
この富山湾の定置網で漁獲されるブリは、「越中ブリ」または「能登ブリ」と呼ばれ、最高級品として高く評価されています。
日持ちの工夫「塩ブリ」
富山から松本へ、新潟の糸魚川から松本へ、歩荷(ぼっか)は約10日~17日かけてブリを運んでいたと推測されます。
歩くスピードに個人差があるにせよ、いくつもの峠をどんなに急いでも鮮魚を運びきることは難しい業でしょう。
そこで、冷蔵冷凍技術のない昔は、漁獲されたブリを日持ちさせるために、ブリに塩をしっかりときかせた「塩ブリ」に加工して、遠路へ運ばれました。
塩ブリの利点は、長期保存できるだけでなく、運搬のしやすさや旨味凝縮効果もあったようです。
富山湾で水揚げされたブリは、東岩瀬で塩ブリに加工されました。
ブリの腹に包丁を入れて内臓を取り出した後、身と皮によく塩をすりこみます。
そのまま吊るして3日~5日ほど寒風にあて乾燥させると、塩が身に馴染み、皮が硬くなり完成します。
長期保存できる塩ブリは旨味が凝縮され、生ブリや干物とは違った発酵による美味しさが味わえます。
年末に届いた塩ブリは、正月のお雑煮に入れたり、アラは大根などと一緒に煮物にし、頭の部分は酢につけて食べたりと捨てるところがないと言われ、隅々まで大切に食べられていたそうです。
名前を変えるブリ
塩ブリは熟成発酵によって、味が変化します。
富山湾で獲れたブリを受け取った地では、その時点での塩ブリの価値を地元に絡めた名称で呼びました。
富山の「越中ブリ」は飛騨高山に到着すると地元の商人に飛ぶように買われ、その後「飛騨ブリ」と名前を改め、信州松本へ出荷されていたのは、そのためです。
「飛騨ブリ」は、そこから野麦街道の終着点である伊勢町に至り、松本へ到着します。
松本で受け取ったブリは大変珍しい貴重品で、商人によってまた名前を変えられ「松本ブリ」として別の地へ出荷されるものもあったと言われています。
富山湾からブリ海道を通って松本に着いたブリは、浜値の4倍で取引されることもあったようですが、待ち望んでいた人達に大変喜ばれ買い求められていたようです。
ブリの旅路を追う
ブリの名漁場である富山県から、「鰤市」がたつ飛騨高山を通り、信州(長野県)松本までどのような道のりだったのでしょうか。
ブリの食文化を今日まで繋いできた、ブリの旅路を追ってみましょう。
日本海から内陸へは、命の道と言われる物資を輸送するための交通路がいくつかあります。
中でも年に一度の楽しみである寒ブリを運んでいた山道は、いつしか「ブリ街道」と呼ばれるようになりました。
街道途中の宿場街では、日用品や食糧と共に文化が行き交い、賑わいを見せていたといいます。
荷物を背負って運搬する人は歩荷(ぽっか)、牛に荷を担がせて引く人は牛方(うしかた)と呼ばれていました。
雪の深い山道では牛や馬は使えず、歩荷は自分の体重より重たい荷物を背負って北アルプスの雪道を歩いたと言われています。
当時の道は現代のように整備されていないため、足場の悪い箇所も多く、熟練の歩荷でさえ足を滑らせて落下してしまう事故が多く発生していたようです。
人々の計り知れぬ苦労と犠牲の下、今日に至るまでブリは様々な道を通って人々の食卓を潤わせてきました。
雪深く険しい約96mの峠越えは8日がかりとなり、1本が7~10kgのブリを何本も背負って歩き届けていたのです。
過酷なブリの荷運び業
富山湾から長野県松本市までブリを届けるルートは、大きく分けて飛騨街道と千国街道の2つがありました。
幕末には、ワンシーズンで数万本ものブリが松本に運ばれていたと考えられています。
山々に囲まれた本州の中央部まで、誰がどのようにブリを運んだのかその様子をみていきましょう。
飛騨高山から松本へ至る際に通る野麦街道では、牛は全て牡牛が使用されました。
去勢していない牡牛は力強く、一頭か二頭でも沢山の荷物を運べましたが、気性が荒く扱いが難しいため、気の荒い牡牛が暴れて命を落とした牛方もいたといいます。
一方、新潟県糸魚川から松本へ至る千国街道では主に牝牛を使っていました。
牝牛は大人しく扱いやすいため、一人の牛方が多数の牝牛を追うことができる利点があったといいます。
牛は、牝牛と牡牛で扱いやすさが異なり、街道や地域によって使い分けがされていたようです。
通常、ブリ街道では牛や馬に荷物を乗せ輸送していました。
山道は原則として踏ん張りのきく牛が用いられるなど、動物の力を借りてより多くの荷物を運ぶことができる時期はよいのですが、雪深い山岳地帯では、冬季になるとどうしても人の力で運ばなければなりませんでした。
牛が通れないほどの雪道は、歩荷(ぼっか)と呼ばれる荷運びの人たちが荷物を背負い運んでいたのです。
冬に信州までのこの街道でブリの荷運びをしていたのは街道筋に住む百姓歩荷と呼ばれる農民で、農作業がひまになる農閑期の副業として収入を得ていました。
荷物は、背負子(しょいこ)と呼ばれる運搬用の道具に入れて背負いました。
休憩をする時は、重い荷物の上げ下ろしはかえって負担となってしまうため、背負った荷物の下に荷杖棒(にずんぼう)という杖で支えを立て、立ったまま休憩を取る工夫がされていました。
往来が多い街道沿いには歩荷宿や牛方宿が設けられており、荷運びを相手にした商売も盛んだったことが伺えます。
公認の荷継ぎ場や番所では、荷物の重さに応じた運送上納銭と呼ばれる関税が徴収されていました。
一部の歩荷は、運上銭の徴収を免れるために、抜け道を通る者もいたと言われています。
危険と隣り合わせの山越えブリの歴史
ブリが歴史的にもてはやされてきたのは、ブリが食べて美味しいだけの魚ではなく、年末の歳神様を迎えるに相応しい神聖な魚であったことが関係しています。
出世魚であるブリを年取り魚として膳につける地域では、年末のブリの需要は高まります。
特に海のない山間部では、10kgもの大魚であるブリは大変なご馳走で高価な食材でした。
ブリ街道を通ってやってきた塩ブリには、漁師、塩ブリ加工の職人、輸送費用、関所で払う関税、牛方や歩荷の危険手当などの付加価値が加わり、米一俵と同等の値段がついたといいます。
それでも自分達の幸せや健康を司る歳神様を信仰してきた日本人は、貧しくとも年末に向けて何としても上等なブリを手に入れようと楽しみにしていたようです。
その裏では荷運びの歩荷が雪深い道中にも関わらず命がけで谷を渡り、峠を越えてブリを主要な地域へ輸送し、何千、何万匹ものブリが、ブリ街道を通り多くの家庭の食卓を潤わせてきたのです。
片道120km~190kmもの道のりを10日以上かけて歩き、谷を越え、山を登り、雪を掻き分け進んだ過酷な荷運びは、85年前まで行われていました。
ブリ街道の要所要所では、市場が開かれたり、休憩所となる茶屋や宿場ができたりと、商売人が集まり栄えていました。
ブリの運搬と同時に海の文化と山の文化の交流が行われ、また藩の経済的な発展も見込まれていたのでしょう。
ブリに携わると様々な仕事が発生するので、現金収入を得たい人々にとっては大変有り難かったのかもしれません。
ブリという魚の扱いの歴史を追うと、これほど多岐に亘り地域や人々の暮らしを潤し、希望であったことを垣間見ることができました。
今でも飛騨高山では年末になると日本海で水揚げされたブリが集められ、塩ブリ市が開かれています。
当時の活気を彷彿とさせる伝統行事として、「一万石」単位のかけ声でのセリが続けられています。
ライフラインであった歴史あるブリ街道は、今では街道歩きのファン達がツアーを組んで訪れるほど人気があります。
次にブリを召し上がる際は、古の旅路を想いながら頂くのも一興かもしれませんね。