鯛漁の歴史
日本人が鯛を食べていた歴史は、縄文時代まで遡ります。縄文人はすでに道具を用い、魚を獲って食べていました。
この頃から効率的な漁を目指し、魚の生態の観察が行われてきたのでしょう。長い鯛の漁業の歴史から日本人と鯛の関係性も知ることができます。
鯛は賢い魚です。鯛と向き合い、人々の知恵と努力で受け継がれてきた鯛漁は漁師の誇りとなり、漁業が発展してきました。
現在、日本近海に生息する真鯛の漁法は、大きく分けて網漁、一本釣漁、延縄漁の3種類で行われています。
鯛漁は瀬戸内海を中心に発展し、漁場に合わせた工夫を重ね、進化しながら全国へ拡大していきました。
地域の特徴に合わせて受け継がれてきた、伝統的な鯛漁を探ります。
鯛と日本人の暮らし
縄文時代(13000年頃前~2300年前)の遺跡から、日本人が鯛を獲り食していたことを証明する鯛の骨が出土しています。
人は知ってか知らずか、良質なタンパク質を多く含む鯛を食べることで疲労回復を促し、中性脂肪を減らして動脈硬化を予防するなど、健康を維持するために必要な栄養を摂取して体調を整え生きてきました。
鯛がもつ白身は淡白で特有の香味や旨味があり、生食をはじめ、干したり焼いたりと、調理方法を選ばない扱いやすい魚種として好まれていたでしょう。
鯛は縁起物としてもてはやされるだけでなく、食べて美味しく栄養面も優れた需要の高い魚として、鯛漁の技術は時代と共に発展していきます。
漁が仕事として確立していくのは、室町時代(1336年~1573年)末期ごろからです。
瀬戸内海を中心に葛網(かづらあみ)と呼ばれる網漁法が発達しました。
江戸時代(1603年~1868年)に入ると、徳川家康が漁業拡大に尽力します。
この頃、地漕網、沖取網、縛網など、様々な漁網方法が誕生しました。
江戸時代中期(1741年)には現在の漁業制度の基盤となる漁業規則ができます。
それにより漁場の縄張りが公認され、藩によって漁業の権利が保障されるようになりました。
また、漁業経営者と漁師の階層分化もでき、大人数による網の引き揚げが可能となっていきます。
漁の工夫は、鯛の生態を知ることが重要でした。
産卵を控えた春と、脂ののる秋に獲れる鯛は肉質がよく、美味しいとされています。
季節や成長に合わせ回遊する鯛は、水温によって活発度が変わります。
鯛は産卵期を迎えると、深場から浅瀬へ移動し、水温14度前後のタイミングで産卵します。
そのため、南北に長い日本列島は、気候の違いで鯛の産卵期にズレがあり、生産地や時期によって味に違いが表れるようです。
鯛の習性を活かした漁獲方法が見いだされ、漁の道具類も発達し、網漁の他にも一本釣りや延縄漁などが盛んになります。
いかによい鯛を漁獲するか、漁師たちは工夫に工夫を重ねて挑んでいきました。
中でも、鯛の王様と呼ばれる真鯛は、輝く赤色の見た目も相まって、献上品として価値の高い魚種となり、各地でその漁に磨きがかかっていきました。
鯛の特徴
鯛は警戒心が強く、利口で漁獲が難しい魚と言われています。
多くのタイ科の魚は両眼が大きく左右に張り出しており、外敵からの危険を視覚で察知する感覚に優れています。
特に真鯛の魚類の中でもずば抜けた視覚があり、色覚も持ち合わせています。
視覚だけではありません。鯛は嗅覚や聴覚も優れた能力をもっていることが分かっています。
鯛は高度嗅覚性魚類に属しています。鯛の脳を見ると、視覚中枢となる視葉が中等に発達し、匂いを感じる嗅葉がとてもよく発達して大きくなっています。
暗く水深の深い海底でも効率よく餌を見つけたり、敵を察知するなど、環境への適応に秀でています。
また、魚類に耳はないように見えますが、実は内耳と呼ばれる部分で平衡感覚をとり、振動をキャッチして音を感知しています。
水中では空気中の約4倍の速度で音が伝わります。魚は私たち人間よりはるかに敏感と言えるのです。
鯛漁の始まり
人々の暮らしていた場所で発見される遺跡には、重要な手掛かりが隠されています。
茨城県南東部の霞ヶ浦は海跡湖で、周辺には多くの貝塚が存在しています。
縄文人の暮らしが垣間見える霞ヶ浦周辺の貝塚からは、真鯛や他のタイ科の魚骨が多く検出されています。
出土品の中には大型真鯛の顎の骨を装飾品としたものがあり、魚の中でも真鯛は特別視され、漁の名人が身に着けていたのではないかなどと推測されています。
2016年、沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から、後期旧石器時代(2万3千年前)のものとされる世界最古の釣り針が発見されました。
この釣り針は14㎜ほどの三日月形で、イノシシの骨よりも堅固な「巻き貝」で作られていました。
また、1965年に発見された長野県の栃原岩陰遺跡からは、縄文時代早期のものとされる鹿角製の精巧な釣り針が出土しました。
私たちの祖先は、遠い昔から身近な物を使って創意工夫し、魚を獲る技術を培ってきたことがわかります。
1955年に調査が始まった静岡県浜松の蜆塚貝塚からは、縄文時代のマダイやチダイ、クロダイの骨と共に、網漁で使用したと思われる石錘と、網漁で浮子に用いたとされる皮製の袋、鹿骨を削って作られた多数のモリが出土しています。
魚網用の錘や浮き袋からは、網を用いて一度に大量の魚を捕獲しようとの発想があったことがわかります。
海の近くに暮らす人々にとって生活を維持するための漁は、確実性が高いものを効率よく狙おうとしたのではないでしょうか。
縄文時代の遺跡である横須賀市夏島の夏島貝塚からは、1950年と1955年の発掘調査でクロダイの骨が多く出土しています。
クロダイは最大70cmを超える大型の魚ですが、水深50mほどの浅い海域に生息しているため、格好の獲物だったと言えます。
日本全国の遺跡から、この時期の漁労活動はもっぱら網漁とモリやヤスと呼ばれる突く道具が用いられた漁法が多かったことが伺えます。
縄文時代人の上腕骨が太く変異していることから、その生活様式が裏付けられています。
鯛網漁の発展
縄文時代の鯛の網漁は、海岸で網を引き回して陸地へ引き上げる徒歩地引網から始まったと言われています。
浅瀬や河口付近に棲むクロダイを狙い、一網打尽にしようと閃いたのかもしれません。
さらに、縄文人はムクノキをくりぬいた丸木舟を作って沖合へ漁に出ていました。
海底に棲む魚を漁獲するために植物のツルなどで大きな網を作り、石錘や浮子を付けるなど工夫を凝らした船曵網漁を行っていたことが遺跡から分かっています。
戦国期に入ると、摂津国(大阪府北中部、兵庫県南東部)や紀伊国(和歌山県、三重県南部)では、葛網(かづらあみ)と呼ばれる網漁法が誕生します。
これは最も早く誕生した海岸で行われる地引網の一種で、地漕網と言われています。
威嚇用に音を出す振木を付けた縄具を用いて鯛をおどしながら浅瀬へ集めていき、追い込んだ鯛を網で巻いてごっそり獲る網漁法です。
鯛を対象とした地漕網は瀬戸内海を中心に見られるようになります。
讃岐香西浦(香川県高松市)では、明徳年間(1390年~1394年)に鯛地漕網が使用されたとの記録が残っています。
広島県福山市鞘の民俗資料によると、同じ明徳年間に香川県の塩飽でも鯛地漕網が行われていたと記録されています。
様々な民俗資料を読み解くと、摂津、紀伊、讃岐など東部瀬戸内海を中心に、地漕網の技術は発達しながら、室町時代末期頃には相州横須賀まで伝来していたと言われています。
網に使われた素材
縄文時代は、イラクサや葛、ブドウといった植物の繊維や、クワやフジの甘皮を糸にして網を編んでいました。
じきに藁製の網が登場し、より強度をもつ苧の網、麻の網を用いるようになっていきます。
江戸時代(1603年~1868年)中期以降になるとより丈夫で複雑な仕掛けが作れる麻網が普及したと言われています。
麻網は重くて乾きにくく、腐りやすいという欠点がありましたが、当時はこれに代わる素材はなかったようです。
明治時代になり、麻より軽くて耐用年数の長い綿綱が普及します。
漁業に用いられる素材は、昭和30年頃まで麻や木綿など作られた天然繊維の網が使用されていました。
綿糸網は撥水効果を高めるために柿渋で染められ、腐食を防ぎ耐久性を強化させるなど、加工技術が発達しました。
今日、漁網のほとんどはナイロンやクレモナなどの合成繊維に代わっています。
ナイロンは、一般の合成繊維の中で最も強度に優れており、摩擦や衝撃に強い素材です。
クレモナは、強度・耐久性・使いやすさを兼ね備えた万能繊維で、水に濡れた後でも縮まず、硬くならない繊維です。
合成繊維は天然繊維と比べて、強度・コストに優れ、海水に浸かることによる腐敗も防ぎやすいため、合成繊維の誕生は漁業に携わる方の負担を大きく軽減させました。
質の良さなら一本釣り
鯛は、産卵期に特定の産卵場所に大挙して集まる習性があります。
そういった時には、網で一挙に一網打尽にするのが最も効率がよいと思われますが、鯛の好漁場が必ずしも網漁向きの場所ばかりとは限りません。
例えば、伊勢・志摩地方における鯛の生息場所は、波が荒く暗礁があり、網漁に不向きな漁場が多いようです。
そのような地域では、釣り糸に釣り針を付ける漁法の「一本釣り」で採捕します。
一本釣りは海況を判断しつつ、鯛のいる深さまで釣り針をおろして一匹ずつ釣り上げる、伝統ある漁法です。
釣り糸をたぐる漁師の指の間隔がものを言い、賢く警戒心の高い鯛との勝負といえる漁法です。
決して効率のよい漁法ではなく、網漁と比べるとどうしても漁獲量が落ちてしまいますが、一本釣りのよさは、得た魚を丁寧に扱えるところです。
漁網の中のように魚同士で擦り合い体を傷つけることもなく、ストレスによってうま味成分を損なう心配も最小限ですみます。
釣りの糸には、麻糸や藤カズラ、葛などが使われていました。
江戸時代初期、丈夫で弾力性のある天蚕糸(テクス)の登場は、一本釣りに勢いをつけます。
中国から伝来した天蚕糸は半透明で、海の中で魚に警戒されることなく使えるのでは?と徳島県の堂ノ浦の漁師のひらめきにより、釣り糸として使用されるようになりました。
徳島を代表する真鯛「鳴門鯛」は、伝統的な一本釣り漁法で人気を博しています。
一本釣りならではの質のよい鯛は少々値が張りますが、腕利きの漁師たちによって長年にわたり受け継がれた漁法で釣り上げられたみごとな鯛は、高い評価を得ています。
天蚕糸(テクス)
天蚕糸とは、繭からとる絹とは違い、野生の樟蚕を開腹し、腸(絹糸腺)から取り出していました。
当時、中国から入ってきた天蚕糸は太さもまばらな粗悪な物でした。
その天蚕糸を鋼板に空けた穴を幾度も通し、細く均一に加工することで、品質の良い透明感のあるテグスとなります。
淡路島由良浦で加工された天蚕糸の糸は「磨きテグス」と呼ばれ、全国に流通されました。
天蚕糸は強靭なしなやかで弾力性があり高級品でしたが、釣り糸として大変重宝されました。
現在釣り糸に用いられるテクスは、ナイロンやフロロカーボン、ポリエチレンなど安価で多様な特性をもつ合成繊維の糸が普及しています。
漁民の知恵「延縄漁の広がり」
延縄漁とは、幹となる長い一本の縄に多数の枝縄(延縄)をつなげ、それぞれの枝縄に釣針を付け、対象とする魚の生息域に設置しておいて、引き上げる漁法です。
日本発祥の漁法で、昔は長縄や千尋縄と呼ばれていました。一本釣りに比べて一度に獲れる量が多く、網漁が行えない岩礁帯の漁場で行われていました。
鯛は成長段階で生息場所が異なります。針に付ける餌や、設置する深さや場所を調整することで、鯛の成魚に狙いをつけ、一度に大量の鯛を釣り上げることができるようになりました。
「古事記」(712年)や「古今和歌集」(913年~914年完成)には、延縄漁に関する記載が見られます。
延縄の記録が多くなり始めるのは、江戸時代に入ってからであり、鯛を釣る延縄は「鯛縄」と呼ばれ、日本海沿岸や瀬戸内海を中心に発展していきました。
室津(兵庫県)、牛窓(岡山県)、家室(広島県)と、延縄漁の基地となる専業漁村が次々と西へと広がりを見せ、海を隔てた五島(長崎県)にも、鯛縄の基地ができていたと言われています。
現在も続く伝統の鯛漁法
鯛の漁法は、日本各地で海底地形に合わせたおもしろい特徴が表れています。
全国で受け継がれている鯛漁法から、鯛の生態と地の特徴を活かした違いや工夫を見比べてみましょう。
こだわりの美味しさを誇る鯛の生産地では、それぞれ特徴のある漁の営みをPRし、地元ならではの水産物として差別化を図っています。
地域に伝わる工夫を凝らした鯛漁法
様々な技術を取り入れながら発展してきた漁業において、常に人はどのように魚を獲るのが効率的か知恵を絞ってきました。
またそれと同時に魚への愛着と商品への自信を持ち、魚の生態を知り未来へつながる漁を考えてきました。
各地方で現在もなお伝統を引き継ぎ行われている、代表的な鯛漁法をいくつかご紹介します。
鯛しばり網
広島県福山市にある鞆の浦に、江戸時代より300年以上続いている網漁法が「鯛しばり網」です。
2015年に福山市の無形民俗文化財に指定された歴史ある漁法です。残念ながら今は漁の主力としてではなく、観光用として1923年に復活された漁法です。
鯛しばり網は、初夏に産卵のために浅瀬に集まった真鯛を大きな網で取り囲み、網を縛る様に船を左右に交差させて素早く引き上げる網漁です。
指揮船、親船(真網・逆網)、錨船2隻、捕れた鯛を運ぶ生船の計6隻で行います。
長さ1,500m、幅100mもの巨大な網を、2隻の船で潮流を読みながら大きく広げ、真鯛を追い込み捕らえます。
吾智網漁(ごちあみりょう)
福岡県糸島市は、天然真鯛の水揚げ量日本一を何年も記録している、真鯛の一大漁場です。
1000年以上の伝統をもつ吾智網漁で、今も鯛漁を行っています。
吾智網漁は、魚群を狙って袋形の網の両端に引綱をつけた包囲網をおろし、鯛を追い込んで漁獲します。
吾智網漁は能率漁法のため、操業漁船や漁具などに規制が設けられています。
糸島市では2隻(二双吾智網)で行うことが多く、時には1隻(一双吾智網)でも行っています。
見えない海中の魚の群れを捉えることができるのは、潮流や鯛の習性を熟知(知恵)した漁師(吾)ならではの漁、という語源をもつ漁法です。
桂網漁
江戸の魚河岸へ、鮮魚を供給してきた内房漁業を象徴する漁法です。高値で取引される鯛に目を付けた関西の漁師によって房州(千葉県)に伝授されました。
長さ100~200m前後の幹綱にエゾマツの木片(ブリキ)が数百から千枚も吊り下げられた桂網を2隻の船で海中を曳き進みます。
海底を引きずることで揺れたり音をたてるブリキで鯛を驚かせ、浅瀬に追い込み、マチ船とアミ船と呼ばれる船が張った敷き網で捕獲します。
役割を持つチームが連携しあい、岩場で縄を絡めないよう見守る代船(だいせん)、動きを指揮する指揮船を含む大スケールな漁法です。
刺し網(さしあみ)漁
魚の遊泳場所に帯状の網を垂直に仕掛け、通過する魚の頭部が網に刺さる様にひっかかったものを漁獲する網漁の一種です。
漁獲対象とする魚種に合わせて網目の大きさや糸の強度などが工夫してあります。
刺し網漁の歴史は古く、縄文時代中期以降から使用されていたと言われています。
鯛のように海底付近の深いところに生息する魚は、水底へ網を錨などで固定する底刺し網漁で行います。
鯛を追いかけて数千年
鯛は縁起物の魚としてだけでなく、良質なタンパク源として、美味なる魚種として食してきました。
島国日本は、良質な真鯛が漁獲できる岩礁や地形に恵まれ、産卵期になると集まってくる旬の真鯛を、時には一本釣りで、時には工夫を重ねた網漁で漁獲してきました。
鯛は視覚や嗅覚、聴覚も発達しており、警戒心が強く、利口で漁獲が難しい魚です。
しかし人々はその生態を探り、効率的に漁獲する技術を培ってきました。
漁が組織として、役割を分担した連携プレイで行うようになり、さまざまな方法の網漁法が誕生しました。
鯛漁の進歩は、鯛に人々を惹きつける魅力があったからです。
歴史上、真鯛は「めでたい」縁起物となり、時の権力者たちへ「御用鯛」として献上される価値あるものに栄進していきました。
江戸時代に普及した、鯛の力強い引きに負けない天蚕糸という素材は、釣りの進化に拍車をかけました。
姿形がよく味に違いある優れた鯛が求められ、漁場の理由だけでなく、ニーズに合わせたより立派な鯛を求めて、網漁から一本釣りの利点が注目されるようにもなりました。
真鯛の習性や潮流の流れを読む先祖代々伝えられてきた漁師の知恵や技は、今も脈々と引き継がれ、全国各地で鯛漁が行われています。
馴染み深い鯛を追いかけて数千年、日本人は飽きることなく鯛という魚を「日本を代表する魚」として、これからも追い求めつつ、未来に繋がる大切な水産資源として扱っていくことでしょう。
[2024-02-16作成/2024-10-11更新]
(c)ふるさと産直村